2013年10月1日火曜日

悟りを得た者と凡夫(平凡な人)の違い

昨日は般若心経の一部分をとりあげましたが、
今日も引き続き仏教繋がりということで、
お釈迦様が説いた、
「悟りを得た人と凡人の違いはどこにあるのか?」
について、
とても分かりやすい解説がありましたので、
ご紹介します!

悟りを得た聖者と凡夫(仏教用語:凡人の意味)の違い 

――この問いに対して、お釈迦さまは次のようなことを説かれています。
悟りを開いた聖者も凡夫も、それぞれ「第一の矢」は受けるのです。
例えば、つまずいて転んだら「痛い」と感じる。
あるいは美しい花を見れば、「きれいだな」という感覚です。
悟りを開いた聖者も凡夫も、生きている以上感覚がありますから、
それぞれ感じるのです。
それが第一の矢です。

聖者は、その「第一の矢」で終わるのです。
しかし凡夫は、「第一の矢」で終わらないで、
次に「第二の矢」までも受けてしまいます。

 凡夫は美しい花を見たら
「きれいだ」というだけで済ますことができないで、
「もっときれいなものを見たい」「花を摘んで帰ろう」などと、
次々に執着が出てくるのです。
するとその執着によって苦痛が生じるわけです。

つまずいて転んで「痛い」と感じることは、お釈迦様も同様です。
けれども、お釈迦様はただ「痛い」と感じるだけで終わるのです。
つまり、「第一の矢」で終わるのです。
私たち凡夫は、「ええいっ、いまいましい」
「誰がこんなところに石を置いたんだ」と
腹を立ててしまうでしょう。
それが「第二の矢」です。
 生きている以上、「第一の矢」を受けるのは仕方がないことです。
大切なことは、「第二の矢」までも受けないことなのです。


いかがでしたでしょうか??
「第2の矢」、
すなわち自分の内から生じてくる執着や怒り、他人を裁く思いなど、
これらのネガティブな思考によって苦痛が生じているならば、
苦痛の原因は環境ではなく、自分ということになりますね。

同じ環境条件でも、第2の矢を受けない、
ネガティブな思考に支配されない人―――

そのような心を迎えることこそが、
「悟り」なのだということを
お釈迦様は教えて下さったのでしょうか?

もしそのような心になれたならば、
どれほど平安で穏やかな人生を送れるでしょう・・・


「天国は、実にあなたがたのただ中にあるのだ。」
(新約聖書 ルカによる福音書 17章20節)
と語られたのはイエスキリストですが、
お二人の教えは通じているのかもしれませんね。

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